
庭球部について
ABOUT
リコタイ硬式庭球部の年間予定です。10月のリーグ戦での1部優勝を目標に日々練習に励んでいます。
「文武両道」を追求する弊部は、試験一ヶ月前から長期休暇が始まるまでの間はオフとなります。

明治25年(1892)、慶應義塾体育会は剣術・柔術・野球・端艇・ 弓術・操練・徒歩の7部をもって創設されました。「先ず獣身を成して而して後に人心を養う」という言葉に代表されるように、慶應義塾の創設者である福沢諭吉は、体育教育の重要性にいち早く注目した人物でもあったのです。慶應義塾体育会は激動の20世紀の中で、日本スポーツ界の先導的役割を果たすとともに、文字通り「文武両道」の優秀な人材を各方面に輩出してきました。(歴史|慶應義塾体育会より引用)
昭和14年(1939年)、日吉の慶應義塾構内に藤原工業大学が誕生し、慶應義塾大学部工学部を経て、現在の慶應義塾大学理工学部となりました。慶應義塾体育会矢上部硬式庭球部は、1941年に活動を開始した藤原工大鍛錬部庭球部を礎としています。その後戦争などの影響で継続性が途切れてしまったものの、慶應工学部の小金井への移転が完了した1949年、10期による小金井のテニスコートの建設と硬式庭球部の再興が行われました。1972年、工学部と同時にテニスコートも矢上に移転され、2009年にはクレーコートからオムニコートへの張り替えも行われました。
【石碑「練習ハ不可能ヲ可能ニス」】
小泉信三先生(元慶應義塾長)は「練習ハ不可能ヲ可能ニス」という言葉を体育会庭球部に贈られ、この言葉が刻まれた石碑が蝮谷コートに設置されています。2012年、矢上庭球会では、男子部・女子部ともに1部復帰を果たした記念として石碑の設置を企画されました。塾当局および小泉家の了承を得て、2013年7月、矢上テニスコートに蝮谷と同様の石碑が設置され、現役部員の活動を見守っています。
弊部の歴史は『慶應義塾体育会矢上部硬式庭球部75周年記念誌』(PDF)に詳述しております。
